奥さんが出るということで、初めて朗読劇を見に行った。
会場は図書館に併設された公民館の地下だった。
会の冒頭は宝塚市長の朗読だった。
その後、詩を順繰りに出演者が読んでいく。
初めての体験だったが、文字が立ち上がってくるような体験をした。
特に図書館の地下奥深く、狭い部屋で満員の人いきれで聞いていたからかもしれない。
朗読会を終え、会館をでると冷たい冬の冷気と空が心地よかった。
朗読には独自の力があるな。
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立ち飲ミストで経営者のモヤモヤブログ
奥さんが出るということで、初めて朗読劇を見に行った。
会場は図書館に併設された公民館の地下だった。
会の冒頭は宝塚市長の朗読だった。
その後、詩を順繰りに出演者が読んでいく。
初めての体験だったが、文字が立ち上がってくるような体験をした。
特に図書館の地下奥深く、狭い部屋で満員の人いきれで聞いていたからかもしれない。
朗読会を終え、会館をでると冷たい冬の冷気と空が心地よかった。
朗読には独自の力があるな。
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昔から西郷隆盛がよく理解できなかった。特に西南戦争にいたる経緯が。行き場のない反動的な没落しつつある士族が既得権益のために立ち上がった。その時に隠遁していた西郷に頼り、負け戦とわかっていたが止む無く付き合った反乱?という程度の理解だった。もちろん、今でもよくわからない。それでも西郷に引きつけられた人が多かったことは、なんとなくわかるし、西郷には何か思うことがあったのではないか?と思わされた。
西郷南洲遺訓 (岩波文庫)を読むと、茫洋としたイメージながらも人を引きつけていたことはよく分かる。そして「弱いもの」へ心を寄せる人だったのではないか?とずっと思っていた。それが西南戦争ではないのか?と。
「維新の夢」(ちくま学芸文庫)に繰り返し書かれる西南戦争の参戦者の内訳、西郷の維新後の行動などを詳細に読むにつけ、ますますわからなくなった部分と、西郷がイメージしていたのは、「もう一つのアジア的近代国家」だったのだと。その(第二維新)革命のために立ったのだと。
そんなことを思った。それゆえに馳せ参じた士族には民権派も多数おり、奮闘したという文章を読むと、心が熱くなり、爽やかな心持ちになった。
今の時代、再びアジア的近代国家ということが東アジア、東南アジアで議論されてくるように思われる。安直に叫ばれる「維新」とは何だったのか?」を足元から考えるには、「維新の夢」(ちくま学芸文庫)は良書だった。
言い換えると、さまざまな私的な労働が、社会的な労働全体の一つの部分を構成するものとして認められるのは、交換によって労働の生産物がたがいに関連しあい、そしてこの労働の生産物を媒介にして、生産者たちがたがいに関連しあうからである。だから生産者たちには、自分たちの私的な労働の社会的な関係は、あるがままのものとして現れる。すなわち、労働する人格が直接的に他の労働する人格と作りだす社会的な関係として現れるのではなく、人格の物的な関係として、また物と物の社会的な関係として現れるのである。
「資本論1巻第1章第4節商品のフェティッシュな性格とその秘密より」
九州出張のフライトのお供に本を探していたら、書棚に格好いい背表紙の「資本論」があった。
昔、価値形態論を読んだ方がいいと何かで知り、「資本論 (1) (国民文庫 (25))」を四苦八苦して読んだ覚えがある。
それでも商品から貨幣、資本への進んでいく物語に、なにか世界の秘密が分かった気になったものだ。
新訳とのことで改めて中山元訳版をパラっと見てみると読みやすい。
何より本の装丁が素晴らしい。
というわけで、ジリジリと読んでいる。ページの下に良い感じの空白があるので、ちょこちょこと書き付けながら。改めて読んでみると、考え方で煮詰まっていることに光を感じることもあって、面白いなあ。
今朝、冬の冷たい風が吹きすさぶ中、武庫川沿いのフリーマーケットへ奥さんを送った帰り道。ふと、先日読み終えた佐野眞一の「あんぽん」の最後のエピソードが蘇ってきた。
「あんぽん」は孫正義氏の父親を中心とした孫一族三代に亘る「血と骨」のドキュメンタリーだが終始、文章からは怒声と決意表明と血の匂いに満ち満ちている。
最後の最後に孫正義氏の実母のコメントが出てくる。
それは、密造酒作りや金融業から九州一のパチンコ王にまでなりながらも、いろいろな噂のある孫正義氏の父親である別居中の旦那について振り返る。
それは、バイクに二人乗りで集金に駆け回った若き日のことを美しい思い出として。
かつて義理の母親からも同じようなことを聞いた。今は寝たきりの板金屋の義父との思い出を。
僕自身は、90年代末から仕事が急増し、某大手印刷会社に毎週のように深夜納品をしていた。一人で行くと、眠くなるので、嫁さんと二人でひと気のない国道二号線をひた走った。
「あんぽん」読了後の何とも言えないくすぐったいような心持ちについて、ひっかかっていたのだけど、不意に自分の中で答えが出た気がした。
「あんぽん」自体がいい出来かどうかは、よく分からなかったが、個人的にはとても印象深いシーンの多い一冊だった。
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最後の最後の章から適当に抜き書き。なんとも言えない感慨をもった本。
なんというか「〈民主〉と〈愛国〉」を読んだ時は、なんかとても興奮とスッキリ感が入り交じった感じだったのだけど、「夜戦と永遠
」は地鳴りのような足踏みが耳の奥で響きながら読みふけった感じだった。なんか旅に出てた感じ。
最後の章は電車内で入ってしまって、もったいないので、会社に行く途中のドトールに入って、読み終えることになった。そんなに「読みたい!」と思ったのは久しぶり。
というわけで、ちょっと抜書きしたメモを書いておこう。こういうのはネタばれとは言わないと思うけど、読んでる最中や未読の人は見ないでください。
<博徒どもの永遠の夜戦>
内部において内部を創り出す者こそが、生きるものこそが〈外〉なのだ。
主体は、創造行為の賭博において、〈外〉の襲来の壁となり、かぎ裂きとなる。
〈外〉の風に曝された、博徒どもの永遠の戦い。
ブランショは、この〈外〉の風が吹きつける案出の時を、「夜」と呼んでいた。
その「夜」の、〈外〉の嵐、永遠の夜戦。
何も終わらない。何も。
ここから始める。「夜戦と永遠」より抜き書き。
おそらく、もう一度、何度でも読んでみることになるのだろう。
日曜日に奥さんとの待ち合わせに時間があったので本屋で時間をつぶしていた。岩波文庫の棚を眺めていると、何となく「ツァラトゥストラ」が目に入った。
確か大学生の頃に読んだかな?
あの時の記憶を振り返ってみる。
「なんだ?この訳の分かんない話は?ツァラトゥストラって誰よ?超人で何よ?」
みたいな感じしか思い出せない。
何となく今読んでも同じ感覚かなあ。と手に取ってみた。
確かに20年前に読んだ時と同じように寓話が広がっている。
もちろんそれは変わらない。
しかし、一行目から僕は引きつけられたのだ。
どのページを開いても、胸を目を腹を脳天をすべてを撃ってきた。
「なんだこりゃ?」
という感想は別の意味になっていた。
読みかけの本はすべて横におき、急ぎ足で歩きながら荒っぽく「ツァラトゥストラ」を読んでいる。
岩波文庫に訳者の方のあとがきに賛成だ。注釈なしで読み飛ばそう。
まだ上巻しか読んでいないけど、あとがきの切迫感もいい。
藤原新也の「黄泉の犬」文庫版を読んでいる。
青年のバイブルと言ってもいい「印度放浪」を老年の藤原新也が振り返る体裁だ。
一方、オウム真理教、阪神淡路大震災、東大卒の迷える若者という現在の事件と過去を行ったり来たりして、
年寄りも回顧話になっていない読み応えのある硬質な内容だ。
「印度放浪」でも印象的なエピソードである川の中洲での水死体と野良犬との攻防とショッキングな写真について、現場での実況の下りがとにかく印象的だ。
中でも帰りの船上での唐突な「耳の瞑想」の話。長いが抜粋するとこうだ。
いまあなたがいる場所には無数の音や声がひしめいている。その中のいちばん小さな音を探し当てるがいい。そしてそれに耳を傾ける。そうすると意識が集中してくる。その小さな音が確かに聞こえるようになったら、それよりもさらにもっと小さな音を探し当て、それに耳を傾けなさい。そしてそれがまた確かに聞こえるようになったら、それよりもさらにもっと小さな音を探し当て、それに耳を傾ける。そのようにして、徐々に徐々に、沈黙の音を自らのものにたぐりよせるのだ。漁師が魚の入った網を手元にたぐり寄せるように。
多少の誤字もあると思うけど、ほぼこんな内容。
この話だけでも考える話だけど、中洲での「悟り」とも言える体験の後に「耳の瞑想」。
なんだか昨晩に読んでから、未だに心が鎮まらないのだ。
まとまらないうちのブログに書きつけておこうと思った次第。
三十代の半ばから孔子の論後に出あって、とても影響を受けたと思う。
日本では、忠誠を学ぶ本と思っている人がいるけど、そんな馬鹿を作る古典じゃない。
もっと逞しい生き抜き方と組織運営を学べる本だと僕は受け取った。
でも、再び組織ではなく、意志を持った個人と個人の繋がりを江湖に問う決意をした今。僕に必要なのは、老子のアナキズムだと思う。
改めて岩波文庫版を引っ張り出して来て、読んでみようと思う、
100sの新アルバムである「世界のフラワーロード」を聴いている。
届いたのは約1週間前だったけど、人生初ボランティアやら面白すぎる社長インタビュー4連発やらで
ほったらかしになっていた。
そもそも、なせ久しぶりにきちんと100sというか中村一義のアルバムを買おうを思ったのか。金字塔の頃から応援しているけど100sになってからはじめこそ新鮮だったけど、つまんないバンドサウンドになっていってる気がしていた。
だから前のアルバムや最近は、どんな曲があるかもしらない状態になっていた。
でも、もう一回じっくり聴いてみる気になった。
アルバム内の曲である「最後の通信」というPV冒頭の彼の顔つきを見た時、
もう一度、一人で歩いていこうとしていることを感じたからだ。
さらにいい加減に見えるけど、普遍性を含んだジャケット写真にも心を動かされた。
中村君がもう一度、一人で歩いていこうと決意したとしても、
金字塔の頃のように「状況が裂いた部屋」で一人ではなく、
バンドという社会を通過して後の決意ということに関心があった。
社会で一人でいる決意と言うのは、メインストリートのならず者だ。
というわけで、現在、じっくりと「世界のフラワーロード」を聴いている。
明るい曲調に凝ったメロディー。歌詞はシンプルだけど深く効いてくる。
僕の中の中村君が戻ってきた。
そして、「君はどうすんの?」と尋ねてきている気がした。
モノアイの爽やかソウル!
最後の通信のシリアスな美しさ!
何度でも聴きたい!