読み耽ったキリスト教の本たち【252本目】

今年の前半はずっと、新約聖書とその周辺の本を読んでいた。
1冊読めば次の本が気になり、気づけばイエスと神学の本棚にすっかり沈んでいた。
途中に挟んだ佐藤優の『哲学入門』と、最後に読んだ『神学の思考』が、ちょうどひと区切りになった感じ。
新約聖書の通読はまだ続けるつもりだけど、そろそろ哲学の読書にも戻っていこうと思う。
以下は読んだ(でる)順に本たちの紹介。

◎新約聖書
新約聖書フランチェスコ会訳
https://bookmeter.com/reviews/128237068
 ↓
新約聖書 本文の訳(田川建三)
https://bookmeter.com/books/12923790
 ↓
新約聖書 聖書協会共同訳(通読中)
https://bookmeter.com/books/22123459

◎関連書籍
原始キリスト教史の一断面:福音書文学の成立(田川建三)
https://bookmeter.com/reviews/129024577

キリスト教の歴史(小田垣雅也)
https://bookmeter.com/reviews/128084660

トマスによる福音書(荒井献)
https://bookmeter.com/books/127509

イエス伝(ルナン)
https://bookmeter.com/books/230431

哲学入門(佐藤優)
https://bookmeter.com/reviews/127956711

イエスという男(田川建三)
https://bookmeter.com/reviews/129405048

イエス(ブルトマン)
https://bookmeter.com/books/292755

神学の思考(佐藤優)
https://bookmeter.com/books/9273863

昨年までは念仏や仏教の本を読み漁っていたのに、
今年はすっかりイエスと新約聖書の世界に沈んでいた。

関心を持ち出すと止まらなくなる。
でもいつか、「もういいか」と静かにページを閉じる日も来る。
そんな繰り返しが、私の読書なのだろう。

【243本目】分厚い本を読み通すシンプルな習慣

ここしばらく、新約聖書の通読を毎日続けている。田川建三訳の版を少しずつ読み進めていて、気づいたのは「どんなに分厚い本でも、毎日ほんの数ページでも続けていけば、いつかは必ず読了できる」というあたりまえのことだった。けれど実際に体感すると、これはなかなか励みになる。

読み進めた記録を残しておくと、さらに意欲が保ちやすい。今日はここまで読んだ、と目に見える形で確認できると、次の日もまたページを開こうと思える。そうして記録が積み上がっていくのは、ちょっとした達成感にもつながる。

いまは「新約聖書」と「存在と時間」を同時並行で読んでいる。どちらも数百ページはある分厚い本で、文庫版といえどもけっこうかさばるし、重さもずっしりとくる。通勤のときはパソコンや弁当、水筒に加えて仕事道具一式を背負っているから、これ以上の本を追加するのは躊躇われる。単行本で読みたい本もあるけれど、重さを考えると持参は諦めざるをえない

それでも、通勤時間や昼休憩のわずかな合間に本を開くためには、持参せざるをえない。自宅だけで読むと、どうしても机に向かえる時間に左右されてしまう。毎日の習慣として続けるには、やはり持ち歩くほうが確実なんだよな。

できれば通読対象の本にKindle版があればいいのにと思うのだけれど、そう都合よく電子化されているわけでもない。学術書や古典的な本ほど、電子版の選択肢が少ない。

そうしてみると、分厚い本を読み終えるコツは身についたけれど、「毎日持ち歩く負担」という現実的な問題はなかなか解決できそうにない。読みたい気持ちと、物理的な重さとのせめぎ合い。おそらくこれからもしばらくは続くだろう。

それでも、毎日少しずつ読みながら読了へ向かう時間は悪くない。
重さに耐えるのもまた、分厚い本を読むという行為の一部なのかもしれない。

【242本目】ブルトマン『イエス』が教える人生の瞬間

ブルトマンの『イエス』を読了した。
読み始める前は「著名な難解な神学書」という印象があって身構えていた。
実際に読んでみると、むしろ人間存在を直視させるような迫力があった。

特に心に残ったのは「その人の瞬間瞬間の決断において神への服従がかかっている」という繰り返されるテーマ。日々の瞬間瞬間にどう振る舞うかという選択の中に、神との関係が立ち上がるということだと理解した。ブルトマンがイエスを「あらかじめ迫ってくる神」への服従を宣べ伝える存在として語ったのは、この瞬間性を強調するためだったのではないか。そのため本書全体に我々、イエス、神との緊張がみなぎっているように感じた。

本書の前に読了した田川建三『イエスという男』で描かれたイエスは、宣べ伝える相手は徹底的に社会的弱者向かっており、ともに酒を飲み、飯を食い、大笑いし、共に歩む姿だった。

ブルトマンと田川建三のイエス像は対照的に見えるが、そういう人だったんだろうと、私には妙に胸落ちしている。

ブルトマンの『イエス』後段で示される「罪を神が赦してくれる可能性はあるが、償ってはくれない」という一節にも強く心を動かされた。赦しは与えられるが、過去の行為が帳消しになるわけではない。人は背負い続けざるを得ないが、それでも赦しがある。この二重性にこそ、信仰のリアリティと希望があるように感じた。

こうした理解には、ハイデガー『存在と時間』の「現存在」「世界内存在」をかじっておくと助けになる。ブルトマンがハイデガーに同時代的に呼応していることがよくわかる。今、読み進めている高田 珠樹「ハイデガー 存在の歴史」にもブルトマンがちらっと登場する。

また、自分にとって大きかったのは新約聖書の通読経験だ。福音書の文脈を思い浮かべながら読むと、ブルトマンの解釈を自分なりに考えることができた。聖書通読は知識の積み上げ以上に、解釈の新たな物差しを持つ機会だったと気づかされた。

ブルトマンの評価については、彼の「非神話化」の手法は革新的とされる一方で、信仰を合理化しすぎるとの批判もあるようだ。ただ、そうした議論を抜きにしても、『イエス』は読者に「歴史的な人物像」を示すよりも、「いま自分は日々、瞬間瞬間によく生きることができるか?」」を突きつけてくる本だと感じる。難解な神学書を読むつもりで開いたはずが、むしろ自分自身の生き方を問われる読書体験になった。

【225本目】グノーシス主義について。

「そして、彼が言った、「この言葉の解釈を見出す者は死を味わうことがないであろう」
〜「トマス福音書」より

グノーシス主義な基本的な考え方の解説により、イエス復活とキリスト教に近しいのだと知れた。

またイエスの言葉を解釈することで単独者として覚知する思考の流れは、思考の鋳型とも言えるなと自分ごととして体感できた。

【224本目】新約聖書の通読2周目に挑戦

新約聖書の毎日通読を1/4から新共同訳Kindle版で開始していた。

その後、新約聖書をフランシスコ会版に切り替え、進捗管理はGoogleスプレッドシートを活用して毎日楽しく読み進めた。

毎朝出勤時に電車を待つホームで通読するのが習慣化した。
その結果、毎日欠かさず通読し、150日目でヨハネ黙示録まで読了。
無事に新約聖書通読の初体験を修了できた。

読み終わってみると寂しさを感じつつ、もう一度読み直すと理解が深まるかもな。
と思い始めて・・・丸善で軽くて持ち運びしやすい新約聖書を新たに買ってしまった。

表紙絵も良い感じ。

新たな新約聖書にはダイソーで買った半透明のブックカバーをつけてカバンにいれておくことにした。

そして新約聖書通読2周目に挑戦開始している。
今はマタイ伝だが、やはり2周目は味わい深い気がする。

同時にスマホでも読めるようにアプリも入れてみた。
書籍とアプリの進捗同期は手動だが対して苦にならない。

https://www.bible.com/ja/app

さて通読2周目は読了できるだろうか?
なお、私はキリスト者ではない。

【220本目】加齢とともに人生の知見を深める旅

Photo by Jose Aragones on Pexels.com

3月に一つ歳を重ねた。
大病、大怪我、震災を直接経験しながらも無事ここまで生き延びることができたことに感謝と驚き。
55代半ばを超え、四捨五入で還暦。アラカン。

同年代の仲間は組織にいれば60歳定年までカウントダウン。
少し上の先輩は60歳再雇用や転職。
もっと上のお世話になった方々は仕事からはリタイアやもうひと働き。
など金を稼ぐ「仕事」を軸に見るとこれから10年くらいは自身の判断が問われることなりそう。

私の先を歩まれている諸先輩を見ていると人さまざまと思う。

私は加齢の代償として知見を深めていけると思えるかどうか。
好奇心を失わず、新しい動きも横目に学び続けていければ。

人生でずっと解決できなかった課題は解決方法があるのか?
そんな風に一人で勝手に学び続けたい。
知見は若い世代に求められないかもしれないが。

こうしてダラダラとブログを書きつけながら年老いていこう。

【212本目】通読を支える新約聖書を切り替え

新年から不意に始めた新約聖書の通読は、すでに30日を超えた。
朝の出勤中や昼休みに読むようにすると無理なく続けられている。
特に信仰はないが読むのが楽しくなっている。

通読の記録は上の投稿で紹介したGoogleスプレッドシートで。
スマホでも使いやすいので助かっている。
もっと開発が進めばいんだろうな。

もともと積読だった新共同訳の新約聖書Kindle版で始めたのだけど・・・

聞き慣れない地名や度量衡や金額、固有名詞、隠喩が出てきてどうも胸落ちしないと感じていた。都度調べればいんだろうけど、私の持つ新共同訳にはほとんど注釈がない。

読書メーターで検索してみると、フランシスコ会訳には丁寧な注釈がついていて読み進めやすいと目にした。

すぐに丸善に行って手に取ると、確かに読みすすめやすそう!

新約聖書(新版)FB-B6N

大きさもB6版なので嵩張らないと感じ、すぐに購入。

翌朝からこちらへ乗り換えたが通読する速度も上がり、理解しやすくなった気がする。

紙の表紙絵が美しいのだけど、ボロボロになりそうなので外して別途保管。

Amazonでブックカバーを探すことにした。ブックカバーをつけたことを毎日、新約聖書を開くことが楽しくもなっている。

この件はまた後日。

【138本目】親鸞展を見て、正信偈にいまさら衝撃を受ける

GW最終日の日曜日。私はずっと仕事だったので、今日くらいはGWらしい休日を。と思い立った。

そこで京都国立博物館で開催されている親鸞展を見に行くことにした。
オンラインで当日券を、朝食食べながら入手。(便利な時代だ!)

親鸞展公式サイト

あいにく京都市内は土砂降り。
自宅からは阪急電車→京阪電鉄を乗り継ぎ45分くらい。ほとんど傘はささないので、私的には問題なし。
ただ、来館者が少ない可能性があり、「幸運」と思うことにした。

11時頃には自宅を出発。河原町に着くと土砂降りの中を巨大なトランクを引いている観光客も散見され、今日はきつい旅になりそうだなと同情した。
雨に煙る五条の山並みと鴨川を横目に京阪へ。

七条駅を降り、徒歩数分で国立博物館へ。

デジタルチケットを読み取ってもらい入館。

館内には巨大な親鸞展のポスターがかかっていた。


館内の三階から見学開始。

予想通り見学者は少なめでゆったりと親鸞の様々な展示物を見ることができた。
1階までの降り、時計を見るとあっという間に2時間以上見ていたようだ。

教行信証が親鸞の主著。読んでみたいが、、、と思いあぐねながらミュージアムショップに立ち寄ると、現代語訳のええ感じの本を発見!


令和版の訳で、教行信証の中から親鸞自身の文章を御自釈として抜き出してるそう。

図録は当然として、むにゃむにゃ読んでいるふりばかりだった「正信偈」の入門解説冊子を発見!

ここで、親鸞展を2時間以上、集中して見ていたので、急に空腹がやってきた、、、、

親鸞展を後にして、七条駅そばの「ラーメンの坊歩」さんに飛び込んだ。

食べログサイト

鶏豚骨ラーメンは初めてだったけどうまかった!

ごちそうさま。

帰り道に親鸞展についてつらつらと考えてみた。

嫁さんの実家が、東本願寺つまり真宗(大谷派)だったこともあり、気になりつづけていた親鸞だが、何度か解説書を手に取っても「念仏で救われる???」で引っかかっていた。

今回の親鸞展で、宗派を超えた丁寧な展示により、理解が少し進んだ気がする。

親鸞筆のクセのある文字で書かれた多く文章を眺めていると、生き生きとした姿が浮かぶ気もした。

教行信証を亡くなる直前まで推敲し続けていたこと。
数多くの仏教書物を解釈し続けたこと。
弟子たちにも布教のために書き方を変えて、与えていること。

残されている肖像画では厳しい顔つきだけど、慕いたくなる知見と気遣いがあったんだろう。そして、それは時代を超えていた。

帰宅して、熱いインスタントコーヒーを飲みながら「正信偈」解説冊子を読んでみると、「他力」の意味が私の想像と全く異なるとこに衝撃を受けた。

「正信偈」に親鸞が込めた哲学的内容を、朝夕に昔から真宗門徒がお勤めしつづけてきたことにも胸を打たれている。(浅い感想だが)

【130本目】献体について知る。

自分が亡くなったらどうするのか?

昨年に父が亡くなり、葬式の件、墓の件など懸案だったことが一気に押し寄せてきた。

仏教的な習慣に沿って弔ったが、実際は特定の進行がない自分には戸惑うことの方が多かった。

「不慣れ」で片付けるには、自分ごと/夫婦ごととして考えると胸落ちしなかったのが事実だ。

嫁さんとは、夫婦(とできれば愛猫)と樹木葬や合祀がいいねと話している。

献体とは?

先日、仕事で某医科大学へ仕事で伺った際に「献体」について知ることになった。

解剖学を研究・指導されている学科だったので、教官から丁寧に教えていただく機会があったためだ。

献体とは、医学・歯学の大学における解剖学の教育・研究に役立たせるため、自分の遺体を無条件・無報酬で提供することをいいます。

公益財団法人 日本篤志献体協会より

ただ、解剖実習を行う実習室で教官からお話をお聞きするまで、献体について抽象的な理解に止まっていたと実感した。

献体され、解剖学の教育・研究に活かされた後は・・・

解剖学実習終了後、ご遺体は一体ごとに大学側で丁重に火葬し、ご遺骨をご遺族にお返しいたします。なお、いずれの大学でも、献体された方々のために、大学の公式行事として毎年慰霊祭が行われています。

公益財団法人 日本篤志献体協会より

亡くなった後、若い医学者に自身が役立ち、火葬までしてくれて、遺骨を返還してくれるとのこと。

私が仕事で伺った医科大では、遺骨が遺族に返還される霊安室があり見せていただいた。

静謐な白い小さ目なお部屋で、ステンドグラスが正面に飾られていた。

「特定の宗教に偏らず、きちんと感謝してお返しする場としてあるんです」とお聞きし、

思わず「神聖な場所ですね・・・」と口にした。

施設に宗教性はなくとも、その場に宿る雰囲気に口をついてでくる言葉は「神聖」だった。

献体について、ゆっくりと考えてみたい。

参考サイトは、公益財団法人 日本篤志献体協会かと。

http://www.kentai.or.jp/index.html

【91本目】「暇と退屈の倫理学」読んだらユクスキュルに久しぶりに出会った。

Kindleで半額だったので購入した一冊。
著者の國分功一郎氏が何かの講演会の進行をやっていて、なんとなく知ってたので。
軽い感じに見えて、考え込まされるようになっていていた。

以下、感想メモ。

  • ハイデガーの退屈論(3形式)の解説面白かった。
    • ただ、決断すると奴隷になる、他の情報を受け入れなくなるというのはピンとこなかった。
  • ユクスキュルの環世界論を人間、動物の比較で解説も面白かった。
  • 特に人間への適用と成長を絡めた説明は、教育の観点からもとても惹かれた。
  • 決断してきた自分の人生と比較して考えることも多かった。
  • 後書きで複数大学での講義が元と知ったが、学生とのやりとりになぜか胸を打たれた。

考えさせてくれる意味で面白い一冊だったな。

2005年にユクスキュル「生物から見た世界」の感想を投稿していた。


岩波文庫でKindle版になっていた!

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