言い換えると、さまざまな私的な労働が、社会的な労働全体の一つの部分を構成するものとして認められるのは、交換によって労働の生産物がたがいに関連しあい、そしてこの労働の生産物を媒介にして、生産者たちがたがいに関連しあうからである。だから生産者たちには、自分たちの私的な労働の社会的な関係は、あるがままのものとして現れる。すなわち、労働する人格が直接的に他の労働する人格と作りだす社会的な関係として現れるのではなく、人格の物的な関係として、また物と物の社会的な関係として現れるのである。
「資本論1巻第1章第4節商品のフェティッシュな性格とその秘密より」
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