
ブルトマンの『イエス』を読了した。
読み始める前は「著名な難解な神学書」という印象があって身構えていた。
実際に読んでみると、むしろ人間存在を直視させるような迫力があった。
特に心に残ったのは「その人の瞬間瞬間の決断において神への服従がかかっている」という繰り返されるテーマ。日々の瞬間瞬間にどう振る舞うかという選択の中に、神との関係が立ち上がるということだと理解した。ブルトマンがイエスを「あらかじめ迫ってくる神」への服従を宣べ伝える存在として語ったのは、この瞬間性を強調するためだったのではないか。そのため本書全体に我々、イエス、神との緊張がみなぎっているように感じた。
本書の前に読了した田川建三『イエスという男』で描かれたイエスは、宣べ伝える相手は徹底的に社会的弱者向かっており、ともに酒を飲み、飯を食い、大笑いし、共に歩む姿だった。
ブルトマンと田川建三のイエス像は対照的に見えるが、そういう人だったんだろうと、私には妙に胸落ちしている。
ブルトマンの『イエス』後段で示される「罪を神が赦してくれる可能性はあるが、償ってはくれない」という一節にも強く心を動かされた。赦しは与えられるが、過去の行為が帳消しになるわけではない。人は背負い続けざるを得ないが、それでも赦しがある。この二重性にこそ、信仰のリアリティと希望があるように感じた。
こうした理解には、ハイデガー『存在と時間』の「現存在」「世界内存在」をかじっておくと助けになる。ブルトマンがハイデガーに同時代的に呼応していることがよくわかる。今、読み進めている高田 珠樹「ハイデガー 存在の歴史」にもブルトマンがちらっと登場する。
また、自分にとって大きかったのは新約聖書の通読経験だ。福音書の文脈を思い浮かべながら読むと、ブルトマンの解釈を自分なりに考えることができた。聖書通読は知識の積み上げ以上に、解釈の新たな物差しを持つ機会だったと気づかされた。
ブルトマンの評価については、彼の「非神話化」の手法は革新的とされる一方で、信仰を合理化しすぎるとの批判もあるようだ。ただ、そうした議論を抜きにしても、『イエス』は読者に「歴史的な人物像」を示すよりも、「いま自分は日々、瞬間瞬間によく生きることができるか?」」を突きつけてくる本だと感じる。難解な神学書を読むつもりで開いたはずが、むしろ自分自身の生き方を問われる読書体験になった。
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