Photo by Brett Jordan on <a href=”https://www.pexels.com/ja-jp/photo/iphone-ios-5417837/” rel=”nofollow”>Pexels.com</a>
マストドン再起動して、1ヶ月ちょっと。今ではマストドンがメインのつぶやき場になっているが、Twitterからの避難先として自らが使うことに違和感を感じ始めてきた。
マストドンを再び使い始める時に投稿した自身の心持ちとのズレというか。
日常的に自身の投稿や他のユーザーの投稿を読んだりいると、Twitterとは違った存在として立ち上がってくるのだ。
かつてTwitterに感じていた、144文字制限によるコンテクストから解放される自由。
今では不愉快、不自由、公害が多いことを知ってしまった。
一方、マストドンには1ユーザー視点の大きな違いは、投稿制限が144文字から500文字に制限が拡大されていることだ。
原稿用紙だと1.25枚分。
これだけの投稿余白があると、Twitterで端折っていたコンテクストを書き込むことができる。もちろんTwitterクローン的に「つぶやき」も許容する空間だ。
そして、コンテクストを織り込んだ投稿は、つぶやきというよりも「短文ブログ」のように感じられてきた。
これが1ヶ月ちょっと前から再起動したマストドンへの「違和感」だ。しかし、この違和感は、自分自身が作文時に考える癖を、かなり喪失していたことへの気づきでもあった。
たかが、144文字から500文字へ拡張ではないのだ。(私には)
マストドンが、つぶやきと短文ブログの混在型SNSとして定着するポストTwitterの本命かもしれない。
また、分散型SNSであることで過熱の拡散を予防できることを持続的に社会に認知されるなら、社会インフラにすらなれるかもしれない。
だとしたら、かつてTwitterが期待された役割を、マストドンが回復できるだろうな。