【108本目】「新選組展」を京都文化博物館へ見に行った

新選組には、ずっと興味がなかった。司馬遼太郎の「燃えよ剣」は読み、娯楽としてたのしんだが、それだけだ。自宅のそばには新選組の屯所だった屋敷があるが、見学にいったことはない。壬生寺には炮烙を年に1回書きに行くくらいだ。門前はしょっちゅう通るけど。

新選組に興味を持てない理由は、
1.関東の田舎から侍に憧れて、幕府に適当に操られて京都に乗り込んできた連中。
2.世界、社内の趨勢を理解できてないので、幕府を守るために斬りまくった連中。
3.負け戦に最後まで付き従ったことが、日本人の感性に響いた連中。
という「先入観」が強かったため、嫌悪していたのかもしれない。

今回の「新選組展」では、「最新の知見を加味し、新選組の実像に迫る」とあったので、興味をひかれ、見に行ってみた。

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「新選組展」公式サイト

公式サイトには書かれていないが、会場には「近藤勇の政治的な面も焦点を当てた」と張り出されており、見に来た甲斐があったと早くも盛り上がった。

目玉は、土方歳三の佩刀「和泉守兼定」だが、私には近藤勇が日野の同志へ送ったの多くの書簡が面白かった。

書簡から浮かび上がってくるのは、近藤はかなり的確に情勢を把握し、自身の理想と現実的判断を行っていたようだと分かった。

また、関東の田舎で剣術好きの連中と勝手に思い込んでいたが、そもそも幕府が江戸で浪士組を集める時、近藤に門人を出せるか打診されており、認知されているほどの道場だったと思われた。

近藤は、アメリカ来航、ロシア南下による自国の危機に対して、新選組も攘夷を考えていたが、天皇から任された将軍(幕府)をトップに立ち向かうという考え方だった。
一方の長州は天皇を直接トップに攘夷を行う考え方だった。

つまり攘夷へ向かうの体勢の思想の違いが、京都での武闘になったということなのだろう。
近藤勇は的確にこの思想の差異を理解して、行動を選択し、積極的に上層部へ働きかけもしていた。
また上層部からたびたび呼び出され、調整もしていたようだ。
ただ、 同時に幕府の体勢劣化も体感し、嘆いていた。

よく見かける近藤と土方の写真(複製)も展示されていた。
小さな写真であっても、伝わる情報の質が違う。

近藤勇はボス顔で政治信念と判断力、調整力があったことが窺えた。
一方、土方歳三は男前で現実主義者に見える。
多くの書簡からも試衛館、日野の仲間達は強い思想集団となっていったのだろうと胸落ちした。
土方が函館まで戦争を続けたのは、ボスであり、兄貴分である近藤勇の政治思想に殉じたのだろう。


あまり興味がなかった土方の佩刀「和泉守兼定」。
これで人を斬ったのかと思うとじっと眺めてしまった。


「新選組展」で私の先入観1と2は変更されることになった。
ただ、先入観3はそのままかな。

この年齢でも先入観が覆るのは良い体験だ。

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